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制作プロジェクトHaLoを主宰するayakoが、音楽、写真などHaLoとしての活動について、また、mac、旅、映画、本、猫、食べ物、気になったニュースなどについて、徒然に綴ってます。


by ayako_HaLo
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急逝したレコーディングエンジニアの藤井暁さんのこと04 (録音のこと)

話をするのが好きな人だったので、昔の話もたくさん聞かせてもらったのだけど、私の記憶力が貧弱なために、間違って理解してたり、忘れちゃったりしているところがたくさんありそうだし、あえて、話さなかったこともあったみたいだ、ということを断った上で、書いておこうと思います。

中学は途中で行かなくなった、という話でした。中学は、出席せんでも卒業させてくれるんやなあって言ってました。最終学歴は中卒です。学校に行かなくなって何をしていたかというと、あちこちのコンサート会場に出没したり、学生運動の「伝令」になったりしていたそうです(中学生だからバリケードをくぐり抜けるのも簡単だったとか)。パトカーをひっくり返したり、公権力に対して、かなり手荒なことをしていたらしい話も聞きましたし、逆に、手荒なこともされていたようです。

音楽の世界に仕事で入ったのは、そんな頃だったようで、一番最初の仕事は美空ひばりさんのステージ袖に控えていて、ひばりさんが、ステージに出られるときに、マイクを渡す係だったそうです。タイミングよくマイクを渡すことが出来て、褒められた、と言っていました。レコーディングエンジニア、音響の道に進んだのは、そんなふうに最初の仕事が音響関係だったから…という理由で、その時に、舞台の仕事をしていたら、舞台の仕事についていただろうな、とも言っていました。

どちらにしても、表に出て何かをするというよりは、完全な裏方の人でした。

友達から借りたギターをこっそり売っぱらって旅費を作って(大げんかになったそうですが)ウッドストックに行った話や、あちこちのコンサートに忍び込んだ話も聞きました。言葉も出来ない状態で、NYのスタジオに入り込んで、文字通り仕事のノウハウを見て盗んでいるうちに、仕事をやらせてもらうようになったとも言っていた気がします。

自分のエンジニア、プロデュースの師匠はイギリス人のSteve Nye(スティーブ・ナイ)だとよく言っていました。この人はペンギン・カフェ・オーケストラのメンバー、プロデューサー。ペンギンカフェのサイモンは、藤井さんが京都時代にやっていたカフェに時々出入りしていたとも言っていたと思います。

スティーブに教わったことは、プロデュースするときに、プロデューサーの色が強く出るのではなく、アーティストが一番気持ちよく本人が表現したいことが素直に表に出てくるように、その環境を整えることだ、と。だから、アーティストが違えば、全く雰囲気の違うものになって当たり前だ、と、そんなふうに言っていました。プロデュースする、ということは、生半可なことではなくて、全方位に対して責任を追うことだから、そんなにたくさんやれることじゃない、これからの自分の人生の中で何枚やれるかだ、と、HaLoのプロデュースをすることになったときに言われました。HaLoのアルバムは"blue", "yellow"に藤井さんの名前がプロデューサーとしてクレジットされていて、"green"は途中になってしまいました。その後、何人かプロデュースする準備をしていたようでしたが、はっきりプロデュースした作品と聞かされたものはなかったので、HaLoが最後だったのかもしれません。

「色をテーマにアルバムを作りたい」初めて私がやりたいことを伝えた時は「意味が良くわからない」と言われました。直前に沖縄の座間味という離島に行って、その海を眺めていた時「見たことのない青だ!」と心を動かされ、自分の持つ「色」のイメージというのは「拡張するんだ!」という体験をしたのがきっかけで思いつき、東京に戻ってきて興奮気味に語る私の言葉は、感覚だけ並べ立てたものだったのかもしれません。自分の持つ色のイメージが拡張するということは、それぞれの人が持っている色のイメージは微妙に違っているはずで、それが違う国で、違う文化で生活してきた人との間だったら、重ならない部分がきっとたくさんあるはずだから、いろいろな国のアーティストたちと、その人達の持つ色のイメージを音にしてもらってアルバムを作りたい。色のグラデーションを音で表したい。私のこのイメージが伝わった時は、とても面白がってくれて、よしやろう!という話になりました。ほぼ時を同じくして、たまたま知り合った大手レコード会社のディレクター・代表取締役が、このアルバムを出したい、という話になり、本格的にアルバムの制作がスタートしていきます。その時には、既にblue, yellow, greenの三部作にする、ということまで決めていましたので三作セットでという話で進めました。

このプロジェクトの途中で、このレコード会社とはいろいろあるのですが、その話はまた別の機会にするとして、今は録音の話だけにしようと思います。

一枚目は沖縄の海でインスピレーションを受けた「青」にする、ということも決まっており、既に、アルバムのジャケット写真のイメージも私の中にありました。海で泳ぐ私のシルエットの背に太陽の光があって、それを下(海中)から写す、というものでした。海+太陽という自然物では、コントロールが出来ないから、プールを借りて撮るのではダメなのか?と言われましたが、私はダメだと。それが難しいかどうかよりも、表現したいものがあるわけですから、プールで人工灯で太陽を作った写真なんか、ありえないわけです。藤井さんとしても、プールでやろう!というよりも、私の意向の確認だったのかもしれません。そんなこともあって、そのジャケット写真をまずは撮影しようということで、座間味に飛んで撮影しました。(どんどん長くなるので、この撮影の話も、また別の機会にしますか…笑。どんだけ書く気やねん、と自分で思っています)

急逝したレコーディングエンジニアの藤井暁さんのこと04 (録音のこと)_b0024339_2244538.jpg


このジャケット写真の撮影と平行して、blueでは、どんなアーティストとコラボするかという準備も進めました。blueなイメージのアルバムを何枚か勧められて聞いたり映画を見たり、この人はどうか、というアーティストの音源を聞かせてもらったり。フィンランドのカンテレというテーブルハープの音を聞かせてもらって、おー、これは是非blueに!と思っているタイミングで、各務、海老原夫妻のお宅にフィンランドのミュージシャンをマネジメントしているphillip pageが来ているということで会いに行ったり。思い出すとホントに色んな方たちに出会いをつないでもらいました。

そんなこんなで、だいたいやりたいメンバーが出揃って来て、そのアーティストたちに一緒に録音したいというラブレターを書いたり、説明するために撮影したジャケット写真を持って直接ロンドンのアーティストを訪ねたり、グラスゴーのフェスティバルに来ていたフィンランド勢に会いに行ったり、そんな準備に結構な時間を費やしました。そして、実際の録音も、一ヶ月半ほどの海外スケジュールの中で、ロンドン、ヘルシンキ(フィンランド)、ドノステア(バスク)でいくつかのセッションのスケジュールをパズルを組み合わせるように設定し、東京、クアラルンプール(マレーシア)の録音も組み立てていきました。連日、メールやファックス、電話でいろいろな人たちとやりとりを重ねた日々でした。

HaLoに関しては、ミックスは全て藤井さんでしたが、録音に関しては、世界のあちこちで録音する、というコンセプトだったこともあって、全てを藤井さんが録音したわけではありません。ただ、録音物の管理は全て藤井さんがやってくれ、一枚目のblueの録音時(1998年〜99年)は、まだアナログマルチテープを使用していましたから、テープの量・重さだけでも大変なものでした。私では片手で持ち上げるのが難しい重さの一本のテープに15分しか録れないので、本数も必要です。そのテープを何本も担いで、海外のスタジオを何箇所も移動するのは、大変なことだったと思います。それでも、タイミング的に一枚だけでもアナログ録音でアルバムを制作することが出来て、その体験が出来てよかったよね、と後から時々二人で振り返ったものです。

blueの録音はアナログで行いましたが、ミックスは、プロツールスというデジタルのミキサーの中で行いました。ちょうど、パソコンの中のソフトで録音とミキシングができる、そんなソフトが幾つか出てきたあたりで、私にはちんぷんかんぷんでしたが、よく他のエンジニアの人たちと、情報交換をしていました。その中で藤井さんが選んだのはプロツールス。blueのミックスと、それ以降の録音はプロツールスのお世話になることになります。

ミックスも、プロデュースの話と同じで、ド派手なミックスをすることはまずありませんでした。ボーカルをドカンと全面に出すこともありませんでしたし(これは、レコード会社と、ギリギリの交渉を要することもありましたが…)、耳に残すために神経に触れるような音の立て方をすることもありませんでした。そんな静かなミックスが私も好きでしたから、ミックスで意見が対立したり…ということは全くなく、まず藤井さんの考えるミックスが固まってきた段階で聞かせてもらって、私がもっと聞きたい所、もっと立体性がほしいところ、そんな微調整をやってもらう、そんな感じでミックス作業をしました。

マスタリングは、ロンドンのメトロポリスマスタリングというスタジオのTony Cousinsにお願いしました。この人は、藤井さんが自分でプロデュースした作品の仕上げをお願いする数人のマスタリングエンジニアの一人で、HaLoにはこの人、という感じで決めてくれました。それまで、マスタリングって何するの?という感じだった私も、トニーの手にかかる前のミックス音源(穴が空くほど何度も聞いている音)とマスタリング済みで返ってきた音の「輝き」の違いに驚いたものです。藤井さんも、信頼しているマスタリングエンジニアの手に最後を委ねることができ、返ってきた仕上がりに満足しているようでした。

録音に関しては、それ以前にも、移動できる録音機材を持ち込んで、響きのいいホールなどで録音していたようですが、そこからは、私のプロジェクトでも場所をスタジオと限らずに録音し始めます。私の場合、多かったのは、ミュージシャンの自宅。特に海外のミュージシャンの場合は、自宅が広く天井が高くていい響きだったり、周囲の音がほとんど気にならなかったり、リラックスできたり、録音終わってすぐにご飯作って食べられたり、スタジオバジェットが節約できたり、いろんな理由から自宅での録音も増えていきました。アルバムのための録音じゃなかったけれど、東京では、La Cana(下北沢にあるカフェ)でも録音させてもらったり、ロケーションレコーディングの思い出は、それぞれにたくさんあります。(それも、また機会があったら書こうかな…)

写真は藤井さんがスタジオ以外で録音するときに使用していたプロツールスのセット。(これは多分BOOMのコンサート録音@日比谷野音の時かな)これより後のセットがあるかもしれないけれど、HaLoの録音その他で私がずっと一緒にいた1999年~2005年頃使っていたのはこれでした。このPowerBookはもともと私のもので、状態が良かったので、録音専用として藤井さんの手に渡ったもの。

急逝したレコーディングエンジニア藤井暁さんのこと01(出会い)
急逝したレコーディングエンジニア藤井暁さんのこと02(生死に関わること)
急逝したレコーディングエンジニア藤井暁さんのこと03(今現在)
急逝したレコーディングエンジニアの藤井暁さんのこと04(録音のこと)

急逝したレコーディングエンジニアの藤井暁さんのこと04 (録音のこと)_b0024339_272845.jpg

by ayako_HaLo | 2013-11-30 02:28 | friends