テレビドキュメンタリー『1999年よだかの星』
2005年 05月 28日
動物実験の現場というものが現代出回っているいかなる製品/商品の裏側にも存在している事と、その実験現場の人たちの葛藤。企業競争の為に複数の現場で同じ実験の為に亡くなる実験動物の命たち。また、動物愛護団体の若い女性たちが彼らの身につける化粧品の裏側に動物たちの実験があったことを知らされ考える様も描いていた。医療実験動物たちの結果を待って病床についている筋ジストロフィー患者の方達…。簡単に白も黒もつけられない。生きている以上どれだけの実験動物たちのお陰をもって現在の私の生活が成り立っているのか。
自分の業の深さ。
自覚して、手を合わせて生きていくしかないのかもしれない。これ以上医療実験するなとは、生きたいと願う人たちの前で語れない。かといって、全てが仕方がない、と業を重ねて構わないとも割り切ってしまえない。
そして、こういう風に両方の思いを抱かせてくれた事が、この「1999年よだかの星」が一番良かったと感じた原因だった。矛盾は自分の中に抱えておきたい。
つい最近、骨髄の病気を抱える我が子を救う為に骨髄の型の同じ子供を産む為に、受精卵を選んでブリュッセルで出産した/出産しようとしている母親のニュースが目に入った。
兄姉の難病治療へ、受精卵診断で子を出産 ブリュッセル
2005年05月21日
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同じように良いとか悪いとかはっきり答えられない自分を感じた。
同じ立場になり、同じ事ができる技術的、金銭的、状況的条件が整えば、「倫理的に問題だ」と言って私は引き下がるだろうか。倫理的という理性と何としても我が子を助けたいという母性、父性、感情は時に相反する。このドキュメンタリーや『火火』を見たところだったのもあり、ニュースを見て「私は何も言えない」と思った。
今は当たり前になっている「手術」というものが出て来た時は「体にナイフを入れるなんて」という嫌悪感はあっただろうと想像する。避妊薬や避妊具が出て来た時に「命の誕生をコントロールするなんて」という議論も今よりずっと活発にあったことだろうと思う。この命のコントロールも、もしかしたら数の抑制の一環で、織り込み済みのことかもしれない。先進国では人はより死ににくく、産まれにくくなって来ているのだから。ただし、地球を風靡した動物は恐竜が氷河期に入って全滅したように、いつか全滅するのことは織り込み済みなんだろう。人も…。今日か、明日か、それとも100世代ほど後か。もしも100世代ほど先なのなら、その時の人たちが少しでも「楽しく」暮らせる地球を残しておけたらいいなぁ、と思うのだけれど。