「ネコジャラシのポップコーン」盛口満著
2005年 10月 27日
だけど、ネコジャラシ(エノコログサ)を食べてみようというのはこれまで考えてみたことも無かった。でも、どうやら食べられそうなのだ。ネコジャラシと「粟(アワ)」は親戚関係にあるみたいなのだ。粟ならほとんど毎日食べている。
著者は自由の森学園という学校の理科の先生だったひと。この本は、この学校の先生をしているときに、生徒たちとネコジャラシその他のドングリ、ジュズダマ、テンナンショウ(毒のあるイモ)を食べる実験をしたり、その過程で調べたことを一冊の本にまとめたもの、という風に受け止めた。
実はこの本を読む前に「ドングリは食べられる」ということを知って、たまたま通りかかった公園に大きなドングリがたくさん落ちていたから、子供たちにまじって手のひらいっぱい拾って来て実験してみていた。その実験の後に、この本のドングリのことも読んだ。
拾って来たドングリを軽く水洗いして、フライパンへ。中火で炒る。
結構簡単にぱちんと真ん中で殻が割れる。表面が少し黒くなって、殻が割れたら終了。
殻が割れているものは、簡単に手で中身を取り出すことが出来る。渋皮も殻にくっついて取れてしまうので、つるん、と中身だけになった。断然栗より剥きやすい。
で、迷いも無く食べてみる。「渋〜い、ぺっぺっ」ていうのを覚悟していたのに、ほんのりと甘くて美味しい!逆にびっくり。勢いづいて相方のお父さんや、相方にも勧めてみる。二人とも「あぁ、食べられるもんだね」程度の反応だったけど、私にとっては、全然食べられる、コレから毎年食べよう〜、パンにも入れて焼いてみようかな、と思うほど「食べられる」以上のお味だった。結局ほとんど一人でポリポリと完食。
そのあと、この本を読んでみて、一口にドングリと言っても色々な種類があるっていうことを認識し、中には渋〜いのもやっぱりあるようで、私がホントに「たまたま」拾ったのは「マテバシイ」という渋くないドングリだったんだろうな、と思う。ドングリを拾った時に葉っぱまで一緒に拾っておけば、どのドングリだったかはっきりと特定できたはずなのに、ちょっと残念。今度行った時には、葉っぱも拾って来よう。じゃあ渋いドングリは食べられないか、というとそうでもなく、食べる為の努力を少しだけすれば、どのドングリでも食べられるみたい。そして世界中あちらこちらに色々な種類のドングリがあるんだってことも分かった。マレーシアや西表には巨大なドングリがあるらしく、西表では昔は食料にしていたらしい。今度行ったら探してみたい。
この他にも、雑草が作物になっていく過程、その違いなども考察されているのも興味深かったし、今現在作られている作物が「一代雑種」という「品種の違うオスとメスを掛け合わせて、その子により優れた性質が現れるという遺伝の性質を利用した種を作っている」ものがほとんどになっている、というのも、ここのところ私の心に引っかかっている「循環しない仕組み」の一端を見た気がした。自家採種可能な種というのを買った時に持った「どれだけの種が自家採種不可能なのだろう」という疑問への答えは「ほとんど不可能」なのだろう…。今、私たちが八百屋さんやスーパーで手にする野菜(や果物)のほとんどが、「甘い」ことを売りにしているこの一代雑種の野菜たちであり、糖度表示などがしてあって甘いことをありがたがる私たちは、どんどん自然の循環からは遠のいている。そして、間に「種苗を扱う企業」を通さなければ今の食生活が成り立たなくなって来ていることも怖いと思うのだけど。
甘い野菜が増えて、野菜嫌いの子供たちは減ったのかも知れない。でも、長い目で見て循環しなくなっている状態がいいとは思えない。ピーマンや苦瓜は苦くていい、というよりその苦味こそにその野菜の特徴があったのに、最近は甘いピーマンやら、苦くない苦瓜やらが出現している。苦いのが苦手な子供たちはオトナになってからの楽しみとして取っておいたらいいのになぁ。
いつか、イヌビエとか、ネコジャラシとかも採って来て食べてみたい。とっても楽に読める本なので食べることや植物に興味のある人にはお薦めの本。
別著の「農業小学校の博物誌」や、「里山の博物誌」も読んでみたい。