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制作プロジェクトHaLoを主宰するayakoが、音楽、写真などHaLoとしての活動について、また、mac、旅、映画、本、猫、食べ物、気になったニュースなどについて、徒然に綴ってます。


by ayako_HaLo
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メルボルンの街を見ずに

10月14日(木)

朝からどんよりとしている。
結局明け方まで眠ることが出来ず、7:00にかけた携帯電話の目覚ましを、手探りで8:00にセットし直したにも関わらず、ちゃんと目を開いて時間を確認したのは9:30を過ぎていた。天気がよくないのを確認して、そのまままどろむ。

そして祖母の夢を見た。夢の中の私はなぜか弟と祖母と3人で旅行をしている。旅行先はどうも日本国内ではない。今いるメルボルンのホテルの部屋とは全く違うのだけれど、どこか洋風のバストイレ付きの部屋の中にいる。夢の中の祖母は、亡くなったときの83歳の祖母ではなく、60代の私がまだたくさんの時間を彼女と共有していたときの若々しい祖母だった。そしてその頃のようにいろいろと私の世話を焼いてくれていて、私はその頃のように甘える孫だった。特に何をしている訳でもない。単にお風呂に入る、入らないの話をしているだけだった。突然に夢から覚める。

もう一度眠ろうと思った。もう一度祖母に会えるのなら。私のこの願望は叶うことが多い。望んだ夢の続きだったり、同じ夢を見れることもある。

今回は、場所変わってが海外のホテルではなく、祖母の昔の家に移っていた。この家で私は小学校を卒業するまで育ったと言っていい。両親ともにフルタイムで働いていた我が家では、私が小学校を卒業するまで私と弟の居住地を祖母の家であるということにし、そこから幼稚園、小学校に通っていた。毎朝、朝食を食べると出勤する父の車に乗って祖母の家に届けられ、夕方、父が迎えにくるまでそこにいる。祖母の家から登校/園時間になると歩いて10分の幼稚園(祖母が送り迎えをしてくれていた)と3分の小学校に通っていた。学校から帰ると、毎日必ず祖母は家にいて、漬け物を漬けたり、縫い物をしたりしていた。スカートを縫ってもらったり、サマーセーターを編んでもらったり、洋服を直してもらったり、お願いをして数日すると出来上がっているという風だった。器用な人だった。

裏庭には柿とザクロ、グミの木があり、全く手入れをしている風でもないのに、毎年実をつけ、取って食べるのは楽しかった。裏庭では弟と体を隠せるほどの穴を掘って「基地」を作ったり、台所で使うザルにヒモのついた小枝でつっかい棒をし、その周辺に米粒を撒いておく「すずめ」の罠を仕掛けて、息を殺してヒモを握りしめていたり、春になると勝手に生えてくるツクシを摘んだり、鉄棒の苦手だった私の為に鉄棒が設置されていたり、いい遊び場だった。

勝手口を出てすぐのところには木製の「物置」があり、トタンの屋根で勝手口と繋がっていた。母の兄弟を祖父がひどく叱る時、その物置は「罰として閉じ込められる」場所になっていたと聞かされていた。何となく怖くて、一度も入ったことがないように思う。

その勝手口を出た屋根の下で、季節になると巨大な樽にいくつもの漬け物を漬ける祖母の作業が行われた。奈良漬けと白菜漬け。子供の私は手伝っていたのだか邪魔をしていたのだかわからないが、塩をぬり込む作業を覚えている。祖母の漬け物は評判だった。

とにかく。
この家は、今はもう無い。
後を次いだ叔父が商売を始め、軌道に乗って来た今から12、3年前に取り壊し、新しい家が建てられた。その新しい家には私はほとんど記憶がなく、そして更に、その後商売が立ち行かなくなり、10年ほど前に土地共々人手に渡った。以来、あの家(のあった場所)に近づいたことはない。知らない人があの家から出てくるのを見て、新たな記憶を持ちたくない。

夢の中では、子供の頃に長い時間を過ごしたあの古い家の居間に、いとこたち何人かと一緒に座っている。そして、みんな祖母が他界したことを知っている。けれどもその輪の中には祖母自身も定位置に座っている。目が覚める時、私は「一緒に旅行していたんだよ」とさっきの夢の話を祖母にしがみついて泣きながら訴えているところだった。

夢というのは時と場所も脈絡が無い。
祖母の他界後、初めて夢に出て来てくれたのがここメルボルンのホテルで、しかも朝のまどろみの中だった。もうメルボルンの街を見ることさえどうでもよくなるような、そんな気分。きっとこの時間の方が大切。

マーケットや美術館、全てをどうでもいいことにして、祖母との再会の余韻を楽しんだ。こうして少しずつ癒えていくんだろうね。

結局ホテルを出たのを16時頃。太陽の光が少しだけ差し込んでいるのに誘われて、街の南側を流れるYARRA川を渡って南側の川辺を少しだけ散歩することにした。
メルボルンの街を見ずに_b0024339_16172374.jpg水族館があったり、川辺に新しいレストランやカフェが建ち並んでいたり、ロンドンのテムズ川の辺りを思い出した。メルボルンでもこの川辺は再開発を進めていて、現在進行形で大きなビルがいくつか建設されているところだった。ロンドンもそうだし、東京もそう。世界のあちこちで都市の水辺の再開発を進めている「時期」なのかな。

そのままアートセンター/NGVインターナショナルまで歩く。17時に閉まる15分ほど前。ムンクやマンレイの展示をやっていたようで、時間があればきっと楽しんだと思うけれど、今回はもう仕方が無い。

再度川を渡って街に戻る。SWANSTON ST.は右手にはSt. Paulの聖堂、左手にはお土産物屋さんとファーストフードのお店が並んでいた。メールのチェックだけしようと昨日見かけたBOURKE ST.沿いのkinko'sというコピーサービスやパソコンを時間貸しで使わせてくれるお店に寄った。数年前のNYでの経験からここにはmacもあることを知っていたから。ウインドウズマシンより、macの方が使用料が高いらしく、「ネットでメールチェックをするだけなら、ウインドウズマシンの方が安いよ」と教えてくれたけれども、もしかしたらOSXの乗っているmacなら日本語を書くことさえ出来るかもしれないし、個人的な愛着もあるしmacを選んだ。自分はよくわからない、と言うお兄さんが日本語で書くことが出来るかどうかを確認するための時間として、5分だけサービスしてくれた。

値段は10分AU$2.75(約¥220)。システムを探したりしながら、結局30分ほど利用した。たぶん設定した人がシステムはユーザーが勝手に触れないように隠してたんだと思う。言語はオーストラリアと米語を選ぶことが出来た以外は何も触れなかった。読めるだけは難なく読めたからよしとしよう。

なんだかんだで、40-50分後に外に出たら、日がかげりかなり気温が下がっている。寒い。10度くらいかな…。足早にホテルに戻った。

今回、オーストラリアのコーリングカードを購入した。コーリングカードを出している会社が何社もあって、昨日セブンイレブンのお兄さんに「日本とオーストラリア国内にかける可能性がある。お勧めのものを、$20」とお願いして買っておいた。GOTalkという会社のもの。日本のKDDが出しているような何らかの「物」を受け取ると思っていたら、受け取ったのはPINコードの印刷されたレシートのみ。ま、確かに、無駄がない。

明日タスマニアに移動するにあたって、現地の相原さんに一度だけ電話を入れておこうとホテルの前の公衆電話でトライ。(ホテルの中の公衆電話は、プッシュ回線ではなく、コードの入力などにプッシュ音を必要とするコーリングカードでの使用は出来なかった)手順通りにダイアルしているのに、「英語の方は1を押して下さい」と言われて1を押したところで電話が切れてしまう。3回ほど電話を変えて繰り返した後、カスタマーサービスに電話をかけて「公衆電話からかけるときは、ローカルコールをかけていることになるので、40セント入れていただく必要があります」とのこと。小銭を用意して、再トライすると繋がった。明日は空港まで迎えにきてくださるとのこと。
「今日はタスマニアは雪でした」
の言葉には思わず「え〜?」と声が出てしまった。

冬装備のかさばる服などを持って来すぎたかもしれない…とメルボルンにいる限り感じていたけど、タスマニアはまた別なんだ。逆に足りないかも(笑)。

何度かお世話になった近所のセブンイレブンの隣に発見した中華系のファーストフード店で、ランチボックスのsmallサイズ(ご飯+おかず2品のチョイス)を食べる。
メルボルンの街を見ずに_b0024339_16185094.jpgAU$6.5(約¥500)。かなり外が寒くなってきて、体が冷えていたので、おかずが熱くなかったのは残念。美味しかったけど。隣のおじさんが食べていた、好きな具をチョイスしてその場で作ってもらったアツアツの麺が美味しそうだった(笑)。

ホテルに戻り、シャワーを浴びたり、荷物の整理をしたあと、1時間の時差を考慮して、日本に電話をかける。あんまり寒いので外の公衆電話に行くのは止めにして、数十倍(数百倍?)かかると知りつつ、vodafoneの携帯から。風邪を引くよりマシです。

本当は日本を出る前に電話を入れたかったんだけど、日本にいながら時間が合わなくてかけられなかった東京在住のタスマニア出身の友人Lに。「タスマニア」という地名を初めて聞いたのは彼女の出身地として、だった。7年か8年前のその時に、「いつか行きたいな」と言っていたのが、全然彼女とは別のところから実現した。とりあえず、タスマニアに向かっていることを連絡しておこうと思って電話を入れた。6年振りくらいに話したけれども、全然そんな気がしなくて、ただ、その頃生まれたばかりのJが話をするようになっていた。そしてもう一人弟Cも誕生したらしい。東京に戻ったら久しぶりに会うことを約束した。

そして、タスマニアに住んでいるご両親の電話番号をくれた。お父さんはブッシュマンで魚釣りの名人だとか。「山はかなり歩いているし、魚釣りに行きたいんだったら今は二人とも引退して家にいるから、電話をかけて」と言ってくれた。16日にオープニングパーティが終わってからのタスマニア前半はもしかしたら時間があるかもしれない。何かあった時にかけられる現地の電話番号があるのはそれだけで心強い。

電気をつけたまま9時くらいからまたまどろみ始め、0時に電気を消したとたん、眠れなくなっていて、ここまで書いた。ほとんど時差のないオーストラリアに来て、何と言う時間に暮らしていることか。日本を出るときの生活が悪かったのか(笑)。現在午前4時16分。5時45分起床予定。
by ayako_HaLo | 2004-10-14 23:59 | travels